旧blog ぼくと「かえる」日記(引越し先)
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「かえる」の「こじろう」の見たこと,聞いたこと,感じたこと。
ようこそぼくと「かえる」日記2へ!
今までも読んでくれてたみんなも,偶然発見したみんなも,遊びに来てくれてありがとう
なんだかんだで「かえる」日記も2冊目に突入したんだなっ♪
突然の2度のアメリカ赴任,そして帰国後の生活はドラマのように大どんでん返し
やっと状況が落ち着いたかと思いきや,急な転勤辞令で落ち着かない事この上ない
人生いつ何が起きるか分からない
そんなジェットストリームな日々に振り回されっぱなしな「かえる」が,だらだら綴る日記だ。
お暇な時にでも,覗いてみて欲しいんだなっ♪
草原に立って想像してみる。 ~橿原でハイキング。その14。~ [思い立った奈良]
今日も橿原と言うか,正確には明日香村の中をぷらぷらっと散策しよう。
草が生い茂っているだけに思えるけど・・・
どうやらお寺の跡のようだ。
『紀寺跡(きでらあと)は小山廃寺(こやまはいじ)ともいわれ、藤原京左京八条二坊に位置する。
1973年以来の発掘調査で金堂跡・講堂跡・中門跡・回廊跡・南大門跡・南面と東面の大垣などが確認されている。
しかし礎石がほとんど残らないことから、詳細な建物規模は明らかではない。
伽藍配置は南大門・中門・金堂・講堂が南から一直線に並び、回廊は中門から講堂に取りついて金堂を囲む形となっている。現在は失われているが、過去には金堂の南東に塔心礎が残っていたようであり、そこに塔が推定される。
また金堂の南西では旗を立てる憧竿支柱の柱跡が確認されている。』
案内板には『礎石がほとんど残らない』と書かれている。
ちょっと思い出して欲しい・・・以前紹介した本薬師寺跡は礎石が残ってただろ?
そのお陰で色んなことが分かったけど,ここはそれが無いんだな。
明治の頃は塔の礎石が残ってたという記述のあるリーフレットを見てしまった為に,すっごく気になる。
ただこのリーフレットの案内板の写真が今現在のとは違うので,少し古い資料なのかもしれない。
まさかと思うけど,橿原神宮創建時に使っちゃったとかじゃないよなぁ・・・(;´Д`)と少々不安になってくる。
しかも創建がいつなのかもはっきりしない。
出土した瓦などは天智天皇の時代(668-672)の様式で,記録上では天智9年(670年)には既に寺があったとされている。
ただ,場所ははっきりしていないようだ。
そして,伽藍の配置は藤原京(694-710)の整備に合わせられたっぽい。
という事は,紀寺跡と言われてるけど,実は別のお寺なのか?
因みに,ちょっと風変わりにも思える名前だけど,地名のキテラから来ているとも言われている。
キテラは紀氏に由来するんだけど,紀氏の歴史は古く,神功皇后を支えたあの武内宿禰が先祖と言われてるんだぞ。
そして,大型独尊塼仏(どくそんせんぶつ)と呼ばれるレリーフタイプの仏像も出土してるんだって。
情報はあるのに決定打が無い,そんな謎だらけの紀寺跡を後にすることにした。
(草原前でブツブツ言ってる人って事案だろ?)
暫く歩くと,素敵な瓦屋根のお寺を見つけた。
法然寺と言うらしい。
瓦の装飾が素晴らしい!
鬼瓦に流水と法輪の意匠?
法輪って言うのは,卍と同じように仏教の象徴的なデザインだ。
古代インドの車輪に似た武器で投げて使う。
これはどこへでも自由に飛んでいくので,それと同じようにお釈迦様の教えが広まり煩悩を打ち砕くイメージから使われているらしい。
人からの受け売りなので,これ以上の詳しい事は知らない。
因みに,このお寺は事前予約しないと拝観できないようなので,注意が必要だ。
う~ん,さっきから気になるのがあの旗だ。
くずバーと書かれた旗がお寺の近くではためいている。
どうやら営業中のようだ。
秋だけど,まだ売ってるかな?
恐る恐るくずバーの取り扱いを聞いてみる。
くずバーマンゴー味getだぜっ♪
少し待ってから食べるといい具合ですよ,と言われたので,袋に入れたまま次の目的地へ向かう。
5分くらいたったけど,全然融けてないな。
では,いっただきま~す♪
・・・・・うっ,すっごく冷たいっ!
前歯がキーン!って痛くなるくらいに冷えてるぅぅぅ・・・(>_<)))
という訳で,温くなったお茶を片手に食べ始める。
食感が,葛と言うか,ゼリーを凍らせた感じっていうのかな?
ちょっと柔らかくて,ぷるるんとした弾力がある。
そして,すっごくマンゴー!(´Д`)/
昔よく食べたホームランバーっていうアイスくらいの大きさなんだけど,結構ハラモチもよさそうだ。
お昼の時間なんだけど,ハラの虫が大人しくなったぞ (´ω`*)
では,次の目的地は・・・
という訳で,溶けないアイス くずバーに興味のあるみんなは,和菓子司甲子屋さんを訪ねてみてくれよなっ♪
うろ覚えだけど,橿原神宮前駅のそばに同じ名前の和菓子屋さんがあった気がするんだけど,調べてないので,ごめんなんだな。
今回も微妙な写真だったので,おまけをUp!
【 奈良と 全く 関係のない おまけ 】
なんだかんだ言いつつ,結局,毎年見に行く松坂屋の大黄金展
今年の大黄金展の目玉は金のドアラだった。
う~ん,ゴージャスと手放しには言えない微妙さがドアラらしい。
こちらは,何かご利益がありそうな大黒様とねずみ。
みんななら,どちらを待ち受けにするかな?
物珍しさのドアラか,正統派な大黒天か。
「かえる」は・・・ロック画面と待ち受けで使い分けようと思うんだな (´ω`*)
飛鳥川淵は瀬になる世なりとも。 ~橿原でハイキング。その13。~ [思い立った奈良]
最初にお知らせ。
今日のお話の中で1917年飛鳥川氾濫のお話が出てくるので,そう言ったお話が苦手な方は注意して欲しいんだな。
* * * * * * * * * * * *
前回Upしたホテイアオイの花だけど,意外と知られてないのかなぁ。
昔,小さい熱帯魚とかメダカの水槽があって,ホテイアオイを浮かべたことがある。
いつの間にか花が咲いてて綺麗だなぁと思ってた。
だから,後になって侵略的外来種だって知った時は驚いた。
でも,ホテイアオイを水質浄化に利用する事もあるそうだから,一概に悪とは言えないのかもしれないんだけどなぁ。
水面を覆い尽くしてしまう程の強い繁殖力。
水槽で増え過ぎると,肝心の魚が死んでしまう事もあるので注意が必要だ。
で,増え過ぎたら間引くんだけど,子供って残酷でなぁ。
浮嚢(うきぶくろ)部分を水中で潰して,泡が出るのを見ていた喜んでいた悪ガキがここにいる。
更には,ハサミで半分に切ってみたりと,色々やりたい放題だったのも覚えている。
お陰で理科は好きになったけど・・・ (;´・ω・)
ホテイアオイと元薬師寺跡に別れを告げて,歩き出す。
この辺りでは水田が多くみられて,稲穂が重たそうに垂れていた。
実ほど首を垂れる稲穂かな・・・と見習いたいけど,なかなか難しい。
そう言えば中国が春節だな。
でも最近は買い物ツアーでなく,より日本のリアルな生活を体験したいって話も聞くようになってきてる。
それで思い出したんだけど・・・
以前,知り合いの中国人から「日本の田舎の風景を見てみたい」って言われた事があったんだ。
ある時,知り合いが連れてきた中国人のお客様たちを連れて岐阜へ行ったことがあってだな。
偶然,稲の収穫をしている場に出くわしたんだ。
「かえる」にとっては,稲刈りだなぁ~って程度の気持ちだったけど,彼らは感動したようで,写真を撮っていいか農家の人に聞いてくれと言ってきた。
みんなもよくご存じだと思うけど,中国は凄まじい勢いで開発が進んでる。
勿論,田舎の方でも同様で,広大な水田が突如としてビル群になってしまうこともあるんだって。
だから,ある年齢以上の人にとって,田んぼは懐かしい原風景なんだそうだ。
確かに,秋の風に揺れる黄金の波を見ていると,何かしら感じる事はあるんだけど。
ただ,それが何なのかは分からないままだ。
飛鳥川。
前日まで雨が降っていたから,水かさが増していたんだろうか?
穏やかな川に見えるのに,草がなぎ倒されている。
おや・・・あんな所に何かの石碑がある。
故村田巳喜次之碑?
有名な方なんだろうか?
隣りの小さな石碑に書かれた詩と何か関わりがありそうだけど・・・。
何となく気になったこの石碑だけど,どうやら村民を守って亡くなられた巡査さんの慰霊碑のようだ。
奈良県警公式チャンネル*によれば,概要はこんな感じだ。
§ § § § § § §
大正6年(1917)9月末。
一つの台風が日本に接近していた。
勢力はさほど大きいものではなかったものの,10月1日に静岡県に上陸した後に勢力が発達。
満月の夜だったこともあり,東京湾では高潮を引き起こした。
そしてこの台風は,上陸地から遠く離れた奈良にも大きな被害をもたらした。
雨は9月23日から降り始め,既に飛鳥川の水位は上がっていた。
29日には台風の影響もあり,全国で大雨となった。
30日,飛鳥川は決壊の恐れがあるとされ,駐在所の村田巡査は出動した。
現場で土嚢積み作業の指揮を執っていたものの水の勢いは増すばかり。
このままでは危険との判断を下した巡査は,村民を避難誘導し始めたそうだ。
そして,人々の避難が終わった10月1日深夜,ついに堤防は決壊。
1人村に残っていた巡査は濁流に飲み込まれてしまった。
そうして夜が明け,巡査の遺体は村から2㎞以上離れた今井町の橋の傍で発見された。
(覚えてる人もいると思うけど,以前,白漆喰の町から離れる時に渡ったあの橋の辺りだ。)
この台風は近畿地方各地でも大きな被害をもたらし,飛鳥川では54年ぶりの大洪水となった。
後に村の人々によって建てられた慰霊碑に使われた巨石は,多武峰(とうのみね)**から人力で運ばれたそうだ。
昭和35年頃から河川の改修工事も行われ,曲がりくねっていた流れは緩やかに整えられ,川幅も広げられた。
**多武峰(とうのみね)
桜井市の南部の山で紅葉の名所としても有名。
十三重塔がある藤原鎌足を祀った談山神社で有名な場所。
今回の石碑からは凡そ10㎞は離れてると思う。
(いつかハイキングに行きたいと思ってるけど,「かえる」の日帰り旅行では時間的に難しい。)
§ § § § § § §
前回の吉野川分水の事といい,この辺りには水に絡んだ悩ましい歴史が多いんだな。
思い返せば,飛鳥川って流れが激しいと和歌に詠まれてた気がする。
「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも~」 って,多分,この飛鳥川の事だと思うんだ。
「かえる」の適当訳:世の中というのは移り変わりが激しい。それは(流れが速い為に)深い淵だった場所が浅い瀬になるような飛鳥川のようです~。
その先は,だけど,あの人への恋心は変わることはない・・・とかそんな恋の歌だった筈。
ふと見上げた空には天へ昇る龍のような雲が浮かんでいた。
川沿いの道を暫く歩く。
栗が落ちている。
リスとか居ないのかな?
今日は写真も少ないし,なんだか長くなってしまったな。
(次回は,もうちょっと写真を多めにできるといいんだけど。)
(次回は,もうちょっと写真を多めにできるといいんだけど。)
では,気分転換におやつ。
幸せの焼ショコラ しかまろくんの初恋。
たっぷり入ったサブレだ。
鹿のしかまろくんが可愛いな。
プレーンとココア味入り。
サブレは四葉のクローバーの形をしている。
だから「幸せの~」なのかな?
そして,中央にはピンクのハート型の焼きショコラが収まっている。
いただきま~す♪(早く食べようと焦ったらボケた)
サブレは少ししっとりしていて,口の中でホロリと崩れる感じだ。
プレーンもココアも程よく甘く,しつこくないのがいいな。
う~ん,焼きショコラがサブレと一体化してて判別が難しいな。
ただ,途中から苺の風味がしてきたから,焼きショコラが苺味なのかな?
パッケージが可愛いので,女性や家族向けだろうか。
写真を撮り損ねてしまったけど,箱に貼られているシールには「奈良」と大きく書かれているから,どこのお土産か一目瞭然なのもポイントが高いな。
という訳で,しかまろくんの初恋 焼きショコラに興味のあるみんなは,是非ともお試ししてくれよなっ♪
この「しかまろくん」奈良観光協会のキャラクターなので,他にも「しかまろくん」
のお菓子があるみたいだぞっ (´ω`*)
*奈良県警公式チャンネル
今回のお話は,奈良県警公式チャンネルを基に書き起こした為,製作者からの申し立て等があった場合,予告なく削除する事があります。
司馬遼太郎が見た橿原。 ~橿原でハイキング。その12。~ [思い立った奈良]
では,令和2年も橿原神宮からスタート。
以前,神武天皇陵へ行ったお話をしただろ?
あの時に「すごくお天気がいい」って思ったんだけど,実際,奈良の降水量は少ないそうだ。
奈良の年間降水量は1300mmくらいだって。
名古屋も東京も約1500mmで,全国平均は1700mm。
因みに一番多い高知は3600mm以上で,一番少ないの長野は900mm程度。
晴れの国と言われる岡山は約1140mm。
降水量が少な目の奈良と一番多い高知を比べたら1/3って考えると,やっぱり晴れの日が多いって分かるな。
そんな奈良には古都があり,昔から盆地(大和平野)では稲作が行われてきた。
「大和豊年米食わず」
降水量の少ない筈の大和で十分な雨が降って豊作になると,他の地域では雨が多すぎて米ができない。
裏返すと,大和以外の降水量が平年通りで豊作なら,大和は旱魃になるって事だな。
その為,この地域では昔から多くのため池が作られてきたそうだ。
でも,ため池を造ったって,雨が降らなければどうにもならない。
それで江戸時代には吉野川の水を奈良へ引く計画が立てられたそうだ。
だけど,この計画は紀州藩の反発にあって断念。
当時は今以上に水が重要なライフラインだったんだろうし,紀州の気持ちも分かるんだけどな。
で,流れてしまったこの計画だけど,その後長らくの間実行に移されることはなかった。
なんと,この分水計画が動き始めたのは戦後になってからだと言うから驚いた。
江戸時代に立てられた計画が300年越しに達成,ってすごく気の遠くなる話だな・・・。
そんな訳で,吉野川分水工事は1987年の完成。
それを記念したものがこの石碑のようなんだ。
なんとも言えない気持ちのまま,今回のメイン目的地の一つへと向かうことにした。
やって来たのは畝傍御陵前駅。
別に電車に乗る訳じゃないんだけど。
地下連絡通路を使って,線路の反対側へ向かう。
連絡通路の奈良県社会福祉総合センター・市町村会館方面へ出る。
そこから約10分,東へと歩く。
途中に案内看板があるので,安心して散策できる。
思ったより早く到着!
特別史跡 本薬師寺(もとやくしじ)跡。
その名の通り,お寺の跡なんだな。
このお寺は天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒の為にと建立計画を立てたものなんだって。
ただ,完成前に天武天皇が崩御してしまい,結局,持統天皇によって完成されたそうだ。
登場人物が小学校の教科書レベルの有名人ってすごい!
(感激のあまり語彙力が低下してる)
で,寺跡を見に来たのかって言うと,どっちかというとそっちはオマケだ。
今回の旅の目的は,季節外れのお花見散歩だ。
という訳で・・・
沢山のホテイアオイの花が咲いている。
どうやら,ホテイアオイは米の生産調整の為の休耕田に植えられているようだ。
確かに,水田ならホテイアオイの育成環境としてはぴったりだよなぁ~(´ω`*)
見頃のピークは8月末から9月だそうなんだけど,実は出掛けたのは10月20日過ぎ。
(一応,橿原市の観光サイト「かしはら探訪ナビ」でホテイアオイの開花状況はチェックしておいた。)
この写真だと,緑のぶ厚い絨毯の中にぽつぽつと花が咲いてる感じで,ちょっとハゲてるところもある。
でも,もしも満開の時期に来たら,この辺り一帯が一面淡い紫色の絨毯に見えるんじゃないかなぁ~。
英名Water hyacinth(ウォーター・ヒヤシンス)の名の通りにとても華やかだ。
かたまって咲いている場所もある。
ホテイアオイって,よく晴れた日には沢山の花が咲くんだ。
でも,曇りの日にはさっぱりな事もあるから,いいお天気の日でラッキーだったと思うんだなっ♪
うっすらと汗をかくような暑い日だったけど,柔らかな色合いの花に癒された。
休耕田のホテイアオイを堪能したので,すぐ脇の寺跡へと目を向ける。
元薬師寺跡の石碑。
石が並んでいる。
これらの石は,どうやら金堂の礎石だった物のようだ。
このお寺は金堂・東西の塔・中門・講堂の伽藍配置とされていたけど,去年の秋に更に南門跡が発見されたんだな。
残念な事に,埋め戻されてしまったそうなので門跡を見ることはできなかった・・・。
一応,お堂が建っているけど,中の様子は分からなかった。
司馬遼太郎のエッセイ「司馬遼太郎が考えた事」からの抜粋が貼られていた。
『~きょう、田の中にある元薬師寺の礎石の群れをさがしあてた。
礎石のむこうは葦牙のにおいたつような万葉ふうの野、といいたいが、そこまで注文通りにはいかない。
畝傍の裏のただの麦畑である。 (昭和41年6月)』
司馬遼太郎も同じ風景を見ていたのかと思うと不思議な気分になるなぁ。
今は,礎石のむこうはホテイアオイ農園が広がっている。
水田に馴染んだそれは外来種とは言え,この長閑な景色に溶け込んでいる気がする。
管理しているんだし,それはそれでいいんじゃないかなぁ~と思ったけど,どうだろう? (´ω`*)
礎石はかなり大きい。
どの石も,こたつ机くらいあるかなぁ?って程に大きい。
上物は無くなっても礎は残る。
やっぱり何でも基礎って重要だよなぁ。
建物は勿論の事,勉強だって,運動だって。
今年こそは,中途半端になってる事をきっちりと基礎から叩き直したいものだな。
って,New Year's resolutionが達成できた事がないので,多分,来年も同じことを書いてる気がする (/ω\)
では,気分直しにおやつだ。
奈良 福みくじ ラングドシャ
そろそろお正月気分が抜けないといけないんだけど,まだ松の内だし・・・許されるだろ?
ずらりと並んだ袋には金運・仕事運・恋愛運・健康運と書かれている。
単に,全体運的なお御籤だと思ってたけど,違うんだな。
まぁ,仕事運あたりから開けてみるか・・・・・・。
甘い香りが広がるにつれ,お御籤の結果への期待度が増す。
・・・・・・大吉だ (´・ω・)
嬉しいんだけど,何故に仕事運?
だって,このひと箱の中に何枚も大吉が入ってるとは思えない。
って事は,残りの運勢に大吉は出ない可能性が高いってことだ。
試しに健康運・・・
中吉って,また微妙な引きを・・・。
まぁ,いいや,食べちゃえ!
甘くて美味しいんだけど,仕事=大吉が納得いかない。
かと言って,大吉がいくつ入ってるのかを確認するために全部封を開けるのは勿体ない。
という訳で,職場や友達と分け合ったら盛り上がりそうな奈良 福みくじラングドシャに興味のあるみんなは,是非ともお試しして欲しいんだなっ♪
「かえる」は八木駅のホームのキオスク(ファミマ?)でgetしたけど,奈良町辺りでも取り扱ってるお店があるんじゃないかな?